歴史学科卒のイラストレーターが歴史上の人々の相関図を作ります。

🇦🇹マリアテレジアの周辺相関図

マリア・テレジアを主役にした相関図を作成しました。

 

有名な娘にマリーアントワネットがいますが、他の子供たちも濃い〜です。

 

■目次

 

■人物紹介

カール6世

第12代神聖ローマ帝国皇帝。最後の男系男子。後継に男子がいなかった為、娘のマリア・テレジアを指名する。

マリア・テレジア

オーストリア帝国皇帝…ではない。女子は皇帝になれなかった。オーストリア大公は父から相続するも、プロイセンやらなんやらが難癖をつけてきてオーストリア継承戦争に発展する。ハンガリーやフランス、ロシアを味方につけてプロイセンを叩きのめす。夫のフランツ1世とは恋愛結婚をし神聖ローマ帝国皇帝位は夫に任せる。皇帝ではなかったが実質「女帝」として政治手腕に優れており、教育制度の改革や産業復興に努め、今でも国民に慕われている。夫大好きで、夫が先に亡くなってしまい悲しんで、死ぬまで喪服を着続けていた。

フランツ1世

マリア・テレジアの夫。正式にはオーストリア大公であるが権力はなかった。

【子供たち】
マリア・エリザヴェータ

長女。3歳で夭折。

マリア・アンナ

次女。側湾症を患っていたため、政略結婚のコマとして役に立たなかった。しかし心優しく、穏やかな性格から父親のお気に入りの娘であった。

マリア・カロリーナ

三女。1歳で夭折。

ヨーゼフ2世

待望の長男。内気で堅物気味。父のフランツ1世崩御後、母のマリア・テレジアと共同統治を行った。テレジアの天敵であったプロイセンのフリードリヒ2世に憧れていた。最初の妻にベタ惚れしていたが、あまり好かれていなかった。

マリア・クリスティー

四女。愛称ミミ。母のマリア・テレジアのお気に入りの愛玩子で贔屓されていたため、他兄弟から嫌われていた。姉妹の中で自分だけ政略結婚をせずに好きな相手(格下)と恋愛結婚した。兄の最初の妻とは仲良くなれたが、フランス王妃になった妹を訪ねてみたところ、嫌われていたので会ってもらえなかった。

マリア・エリーザベト

五女。姉妹の中で1番美人だったらしいが、天然痘に罹り美貌を失う。姉のマリア・アンナのことを馬鹿にしていたが、晩年は一緒に暮らした。

 
カール・ヨーゼフ

次男。パリピ。テレジアのお気に入りで兄を見下していた。天然痘で15歳で死去。

マリア・アマーリエ

六女。22歳の時にツヴァイブリュッケン公子カール・アウグストと恋に落ちるが、母に邪魔されて、政略結婚の駒としてパルマ公に嫁がされる。結婚はしたが、母に反感を抱き駒になることを拒否。母とは疎遠になり勘当された。

オポルト2世

三男。ヨーゼフ兄さんと仲良し。スペインのマリア・ルドヴィカと結婚し、後のハプスブルク家、マリールイーズやフランツヨーゼフ1世などの祖先となった。

マリア・カロリーネ

七女。生まれた当日に夭折。

マリア・ヨハンナ

八女。妹のマリア・ヨーゼファと仲良し。12歳で天然痘で死去

 
マリア・ヨーゼファ

九女。大好きな姉のマリア・ヨハンナは亡くなったことを悲しみ、天然痘を恐れるようになった。政略結婚でナポリ王子に嫁ぐ直前に天然痘で死去。

マリア・カロリーナ

十女。妹のマリア・アントニアと仲良し。フランス王子に嫁ぐ予定だったが、姉のマリア・ヨーゼファが亡くなったため、繰り上げでナポリ王子の元へ嫁ぐことになった。結婚後は夫に代わって政治の実権を握り国を動かした母ゆずりの女傑。そして母同様に18人ものたくさんの子供も産んだ。

フェルディナント・カール

四男。エステ家の娘と結婚し、オーストリアエステ家の始祖となった。

マリア・アントーニア

十一女。フランス名はマリーアントワネット。パリピ。姉の繰り上げ政略結婚により、自分も繰り上げられてフランス王家へと継ぐ。最初は歓迎されていたが、だんだんとフランス国民からスケープゴートとされ、市民革命によって処刑された。

マクシミリアン・フランツ

五男。ケルン大司教となった。音楽や芸術を愛し、ベートーヴェンパトロンにもなった。

 
【子孫】
フランツ2世

マリアテレジアの孫、レオポルト2世の長男。フランス革命進行中に即位。叔母のマリーアントワネットに助けを求められたが、面識のない叔母のためにオーストリアを犠牲にすることができずに見捨てた。

フェルディナント3世

マリアテレジアの孫、レオポルト2世の次男。

マリー・ルイーズ

マリアテレジアの曾孫、フランツ2世の娘。政略結婚で大嫌いなナポレオンに嫁ぐことになり。結婚後は心を許しナポレオン2世を産むも、夫の破滅後息子にも興味をなくす。

フェルディナント1世

マリアテレジアの曾孫、フランツ2世の子。神聖ローマ帝国最後の皇帝となった。

フランツ・カール

マリアテレジアの曾孫、フランツ2世の子。自身は皇帝に即位していないが、息子が皇帝になった。(エリザベートの旦那のフランツヨーゼフ2世

 
【外国】
フリードリヒ2世

プロイセンのやり手の王様。若い頃はマリアテレジアと縁談話があったが、天敵となった。父親がなかなかの独親で、女嫌いになってしまった。

■年表

1736年 マリアテレジア、ロートリンゲン公フランツシュテファン

1740年 カール5世崩御オーストリア継承戦争開始

1742年 バイエルン選帝侯が神聖ローマ皇帝に即位(ハプスブルク家は一時期皇帝位を失う)

1745年 神聖ローマ皇帝崩御、夫フランツがフランツ1世として即位

1756年 オーストリア継承戦争終結、シュレージェンは割譲された

1765年 プロイセン七年戦争

1765年 フランツ1世崩御、マリアテレジアとヨーゼフ2世の共同統治開始

1770年 マリーアントワネット、フランスへ嫁ぐ

1780年 マリアテレジア崩御ヨーゼフ2世の単独統治開始

1789年 フランス革命勃発

1790年 ヨーゼフ2世崩御、レオポルト2世即位

1792年 レオポルト2世崩御、フランツ2世即位

1793年 マリーアントワネット処刑

1804年 ナポレオン、フランス皇帝に即位、

      フランツ2世、ハプスブルク家領をオーストリア帝国と称する

1805年 オーストリア・ロシア連合軍、ナポレオン軍に大敗

1806年 フランツ2世の退位に伴い神聖ローマ帝国解体

1810年 ナポレオンとマリールイーズの結婚

 

■参考資料(書籍)

■コミック版世界の伝記 マリア・テレジア


 

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🇬🇧薔薇戦争 

薔薇戦争の相関図を作成しました。

 

フランスとイングランドの王位継承権の争いである百年戦争が終わって、たった2年で今度は国内で親戚同士のランカスター家とヨーク家で王位を争った戦争が起きました。ランカスター家派は❤️赤薔薇の徽章❤️を、ヨーク家派は🤍白薔薇の徽章🤍をつけて戦ったので、薔薇戦争といいます。

 

■目次

 
【ネヴィル家】

 

■人物紹介

プランタジネット朝

イングランドの王朝。ノルマン朝断絶後フランスの貴族アンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位し創設。リチャード2世廃位によって断絶した。

エドワード3世

百年戦争の原因となったプランタジネッタ朝の王。息子たちに公爵位を与えた。これが薔薇戦争の原因になる。

エドワード黒太子

若くして亡くなった百年戦争の英雄

リチャード2世

エドワード黒太子の忘れ形見、プランタジネット朝最後の王。平和主義者なのに百年戦争や農民一揆などに翻弄された。国民からの人気はなかった。さらに専制政治を始めたところ諸侯に脅威と見なされ、廃位させられた。

【ランカスター家】赤薔薇❤️

プランタジネッタ朝の傍系。1399年〜1461年の間と1470年〜1471年までの間イングランドを統治した王家。

ヘンリー4世

ランカスター朝最初の王。貴族を味方につけて、プランタジネット朝本家のリチャード2世から王位を奪う形で即位したので、継承の正当性が危うかった。シェイクスピアの題材にもなった。

ヘンリー5世

休戦していた百年戦争を再開し、フランス国内のイングランド領を広げた。シャルル6世を何度も打ち破った。トロワ条約によって、その娘を嫁にもらい、イングランド王がフランス王を兼ねられるように取り計らう。妻の兄弟であるシャルル7世とも激しく対立した。国民からも貴族からも尊敬された王でシェイクスピアも最も有能な王と称えた。

キャサリン・オブ・ヴァロワ🇫🇷

狂気のフランス王シャルル6世とヤバイ王妃イザボーの娘、イングランド王ヘンリー5世の王妃、ヘンリー6世の母、ヘンリー7世の祖母、すなわちエリザベス1世の高祖母と素晴らしい血統。生まれた頃に父は狂気に陥り、母は浮気放蕩三昧で酷い環境で育った。敵国王の元へ嫁ぐも、夫は優しかったが、結婚後たった2年で病死してしまった。権力の関係で新王の母が再婚しないように幽閉されたが、使用人のオーウェン・テューダーと大恋愛の末再婚するも枢密院に捉えられてしまった。

ヘンリー6世

イングランド王ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの子。狂気のフランス王シャルル6世の孫。フランスとイングランドの王位を引き継ぐ。ジャンヌダルクの活躍によりシャルル7世にフランス王位を奪われる。(※摂政のヘンリー枢機卿ジャンヌダルクを火刑)本人は心優しい王様で母が自分を置いて駆け落ちしてしまうも、捉えた母の後夫や異父兄弟を保護した。心の優しさのゆえなのか、狂気王の祖父の遺伝なのか、百年戦争敗戦の責任感からなのか精神崩壊をしてしまう。これを機にヨーク公リチャードが実権を握るもヘンリー6世が正気を取り戻しヨーク家を宮殿から追い出すも、ヨーク公は挙兵し薔薇戦争が始まった。

 
マーガレット・オブ・アンジュー(ヘンリー6世妃)🇫🇷

ヘンリー6世の妃、ナポリ王の娘、シャルル7世妃の姪。百年戦争の休戦協定の際に政略結婚としてヘンリー6世に嫁ぐ(シャルル7世に娘がないため親戚のマーガレットが選ばれた)ヘンリー6世を尻に敷きつつ王太子エドワードを産むが、ヘンリー6世は精神崩壊してしまったので、マーガレットが自らランカスター軍を率いてヨーク公リチャードを打ち取り、晒し首にし紙の王冠を被せた。最終的にはヨーク公リチャードの息子のエドワード4世の登場により形勢は逆転、夫も息子も殺されてしまいマーガレットは幽閉生活となった。

エドワード王太子

ヘンリー6世とマーガレットの子、史上唯一戦死した王太子

【ヨーク家】白薔薇🤍

プランタジネッタ朝の傍系。1461年〜1485年の間イングランドを統治した王家

エドマンド

ヨーク家の祖。エドワード3世の息子。

リチャード・オブ・コニスバラ

エドマンドの子。ヘンリー5世に対する反逆罪で処刑された。

 
リチャード・プランタジネットヨーク公リチャード)

リチャード・オブ・コニスバラの子。父母両系のイングランド王家の血統であり、フランス王家やカスティーリャ王家の血も引いている。ヘンリー6世に対する反乱軍から支持されて挙兵、マーガレットに討ち取られる。

エドワード4世

ヨーク家出身の最初の王。ヨーク公リチャードの長男。父の無念を晴らすべくヘンリー6世を廃位させた。キングメーカーリチャード・ネヴィル(ウォリック伯)に推されていたが、勝手にエリザベス・ウッドウィルと結婚しちゃたので、これまでサポートしてくれていたウォリック伯がランカスター家と組んで反乱を起こし、一時期ヘンリー6世が復位するが、反撃に成功して王位を取り返した。若くして急死した。

リチャード3世

ヨーク公リチャードの次男、エドワード4世・クラレンス公ジョージの弟。兄の崩御によりその子エドワード5世が継承したが、叔父として摂政になるも幼い王とその弟を「守るため」という名目でロンドン塔へ幽閉し、エドワード4世とエリザベス・ウッドウィルの婚姻無効の決議をあげる。エドワード5世の継承権を否定し廃位してしまった。幼い甥から王位を奪ったというイメージの悪さから人気がなかった。シェイクスピアからもボロクソに描かれている。ヘンリーテューダーに倒されてヨーク朝は終焉する。

クラレンス公ジョージ

ヨーク公リチャードの次男、エドワード4世・リチャード3世の兄。兄エドワード4世の王位継承時に協力したことでクラレンス公のに叙せられた。キングメーカーリチャード・ネヴィル(ウォリック伯)の娘・イザベルと結婚し兄の王位を脅かす。弟リチャード3世もイザベルの妹・アンと結婚したので、舅の遺産相続争いに発展し、敗れるとロンドン塔へ送られた。

エリザベス(エドワード4世妃)

ランカスター派の騎士ジョン・グレイの未亡人だったが、エドワード4世と再婚する。愛人にされそうだったところを求愛を拒み続け結婚に仕向けた(アンブーリン方式)夫はすぐに崩御し、息子は幽閉された。娘と生き延びるも、娘の夫ヘンリー7世に王位を脅かすとみなされて修道院に送られた。

エリザベス・オブ・ヨーク

エドワード4世の王女、ヘンリー7世の王妃、ヘンリー8世の母、エリザベス1世の祖母。娘を通じてスチュアート朝の先祖になる。父王崩御後、叔父の陰謀で庶子にされ、弟たちは行方不明になる。ランカスター派のヘンリー7世と結婚し、ヘンリー7世の王位継承権に箔を付ける。政略結婚だったが夫婦仲は良かった。

エドワード5世

エドワード4世の長男。叔父によって戴冠式挙行前にロンドン塔へ幽閉され、退位させられた。その後行方不明。名画「ロンドン塔の王子たち」で不安そうにしている兄

リチャード(弟王子)

エドワード4世の次男。こちらも継承権があるので兄と一緒に幽閉の上失踪扱い

【テューダー家】

ランカスター朝からつながる家系。薔薇戦争に勝利し、リチャード3世を倒して王位を得た。

オウエン・テューダー

ウェールズのイケメン没落貴族。イングランドの宮廷で幽閉されたキャサリン・オブ・ヴァロワの使用人だったが、大恋愛の上駆け落ち。逃亡先で捕まるも、ヘンリー6世に恩赦され、ランカスター家に忠誠を誓うも、モーティマークロスの戦いで敗れ処刑された。

ジャスパー・テューダー

オウエンとキャサリンの子、ヘンリー6世の異父兄弟、ヘンリー7世の叔父。

エドマンド・テューダー

オウエンとキャサリンの子、ヘンリー6世の異父兄弟、ヘンリー7世の父だが、生まれる前にヨーク派に捉えられ伝染病で亡くなった。

マーガレット(サマセット家)

ランカスター派の貴族・ボーフォート家の娘

ヘンリー7世

王の息子ではないが、ランカスターの系統。ヘンリー8世の父、エリザベス1世の祖父。リチャード3世をボズワーズの戦いで倒し、薔薇戦争終結させた。ランカスターの子孫である自身とヨーク家の妻エリザベスの婚姻は両家和解の象徴。

 
【ネヴィル家】
リチャード・ネヴィル(ウォリック伯)

キングメーカーの異名を持つ大貴族。薔薇戦争のキーパーソン。最初はヨーク家の親戚にして家臣であり、ヨーク公リチャード亡き後に残された遺児の親代わりでもあった。その手腕でエドワード4世を国王にした。後ろ盾を求めてフランス王家との政略結婚話を進めていたのに、エドワード4世が敵のランカスター派のエリザベス・ウッドウィルと秘密結婚していたことが判明し、仲介役を務めていたネヴィルの立場がなくなり、エリザベスの親族ばかりを優遇するエドワード4世に不満をもつ。王弟のジョージと組み反乱を起こす。この反乱で王を幽閉することに成功するも反逆者として逃げることになるが、元々敵であったランカスター派のマーガレットと組み、ヘンリー6世を復位させる。今度はジョージに裏切られて敗死した。

セシリー・ネヴィル

ウォリック伯の叔母でヨーク公リチャードの妃、エドワード4世やリチャード3世の母。

イザベラ・ネヴィル

ウォリック伯の娘。政略結婚でジョージと結婚する

アン・ネヴィル

ウォリック伯の娘。方向転換した父の政略によりヘンリー6世の王太子エドワードと結婚するも、リチャード3世と再婚。シェイクスピアの「リチャード3世」では酷い夫にいじめられたかわいそうな王妃様。

 

 

■年表

❤️赤薔薇:ランカスター家

🤍白薔薇:ヨーク家

 

1453年 百年戦争終結

1455年 第一次セントオールバンズの戦い【🤍↑vs❤️↓】

    🤍ヨーク公が国政掌握、❤️ヘンリー6世は精神異常状態で捉えられる

1456年 ヘンリー6世回復、親政復帰(❤️王妃マーガレットがヨーク公と対立)

1460年 ウェークフィールドの戦い【↑❤️vs🤍↓】🤍ヨーク公リチャード敗れて晒し首)

1461年 モーティマーズ・クロスの戦い【🤍↑vs❤️↓】

    (後の🤍エドワード4世がランカスター派を破り、オーウェン・テューダー処刑)

     第二次セントオールバンズの戦い

     🤍エドワード4世即位

     タウトンの戦い【🤍↑vs❤️↓】

1462年 バンバラ包囲

1464年 ベッジリームーアの戦い

      ヘクサムの戦い【🤍↑vs❤️↓】

      エドワード4世、エリザベス・ウッドヴィルと結婚(ウォリック伯激おこ)

1465年 ❤️ヘンリー6世、捉えられてロンドン塔へ

1469年 🤍ウォリック伯の上の娘と🤍クラレンス公ジョージの政略結婚

      エッジコートの戦い

1470年 アンジューの合意(❤️ヘンリー6世復位→🤍エドワード4世亡命)

1471年 ❤️ヘンリー6世、再度幽閉されロンドン塔で死亡

1472年 🤍後のリチャード3世とウォリック伯の下の娘の政略結婚

(ウォリック伯戦死)

1478年 🤍クラレンス公ジョージロンドン塔で死亡

1483年 🤍エドワード3世崩御エドワード5世叔父によって幽閉、リチャード3世即位

1485年 ボズワーズの戦い【❤️ヘンリー7世 ↑vs🤍リチャード3世 ↓】

■参考資料(ドラマ)

■ホロウ・クラウン 嘆きの王冠

www.youtube.com

薔薇戦争の流れを追うにはわかりやすい内容

 

■ホワイト・クイーン 白薔薇の女王

www.youtube.com

エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィル、その娘のエリザベス・オブ・ヨーク、ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォート、リチャード3世の王妃アン・ネヴィルなどの女性を中心に薔薇戦争を描いた作品

 

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🇫🇷百年戦争🇬🇧 

英仏・百年戦争の相関図を作成しました。

 

国同士の争い、というよりも親族間の家督相続争いの色が強いです。ヨーロッパの王族はみんな親戚ですからね^^; 亡きフランス王の孫のイングランド王がフランスの王位継承権を主張し、100年くらいの戦争が勃発します。そんなことに巻き込まれる国民がかわいそうすぎる。。。そしてフランス王女のイザベル、ドイツの王女のイザボー…なかなかヤバイ王女様が多い…酷い夫が多いからヤバくなってしまうのでしょうか(汗

 

■目次

<フランス側>
 

 

■人物紹介

<フランス側>
カペー朝

西フランク王国の王朝のカロリング朝の姻戚関係にあるパリ泊ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した王朝。ヴァロワ朝ブルボン朝オルレアン朝のフランスの歴代の王朝はカペー家の分族。ルイ16世が王位を剥奪された時はルイ・カペーと呼ばれた。

シャルル4世

第15代国王。カペー朝最後の王。男子の後継がいなかった為、シャルル4世の死を持って断絶

イザベル

シャルル4世の妹。13歳の時にフランス・カペー王家からイングランド王のエドワード2世に嫁ぐが、王は男の愛人を作り妻に嫌がらせをしたり、ロンドン塔に軟禁されたり等ヤバい夫にうんざりし、モーティマー男爵と愛人関係になり反乱を起こし、息子・エドワード3世を王位につけて傀儡政治を行うが、エドワード3世に反旗を翻される。愛人は惨たらしく殺され、自身は幽閉された

 

ヴァロワ朝

中世フランスの王朝。1328年にカペー朝が断絶したためカペー家の支流のヴァロワ家からフィリップ6世が即位し始まった。有名人は100年戦争のシャルル7世、神聖ローマ帝国・カール5世のライバルであったフランソワ1世、ユグノー戦争のアンリ2世妃のカトリーヌ・ド・メディシスなどがいる。1589年にヴァロワ朝最後の王・アンリ3世が暗殺され、その後はブルボン朝に代わる。

シャルル・ド・ヴァロワ

ヴァロワ家の祖

フィリップ6世

ヴァロワ朝第1代王。断絶した従兄弟王の後を継ぎ王になるも、別の従兄弟のイングランド王から難癖をつけられる。100年戦争の契機となった。

ジャン2世

ヴァロワ朝第2代王。フィリップ6世の子。百年戦争中に即位。ポワティエの戦いでイングランド軍に捕らえられた。一度解放されるも賠償金の用意ができなかったため、自ら再度捕虜になるも獄中死した。

シャルル5世

ヴァロワ朝第3代王。捕虜となった父王の名代として、重税に対するパリ市民の反乱を鎮圧し、百年戦争中のイングランドとはブレティニー条約を締結した。五月蝿いエドワード3世にフランス王位請求権の放棄を認めさせた。父は獄中死した為1364年に即位。バスティーユを建造

 

シャルル6世

ヴァロワ朝第4代王。シャルル5世の生き残った一人息子。前半は親愛王と呼ばれるくらい良い王様だったが、遺伝的な病気で発狂した。

イザボー

ドイツからやってきたシャルル6世の妃、カトリーヌとシャルル7世を含む12人の母。夫が精神病で統治不可になった。王弟オルレアン公・ルイとブルゴーニュ公・ジャン1世双方を愛人にしたなかなかヤバイ王妃。これはブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立の一因となった

カトリーヌ

シャルル6世の娘でシャルル7世の姉。トロワ条約のためにイングランド王家に嫁ぐ

シャルル7世

ヴァロワ朝第5代王。母イザボーはブルゴーニュ派を味方にすべく娘カトリーヌがイングランドで産んだイングランド王子のヘンリー6世をフランス王太子に据えた為、王位継承権を失う。別の派閥・アルマニャク派はシャルルを推して正式な戴冠式がないまま、一応の王として即位するも自信がない。神の声を聞いたという一般人・ジャンヌダルクが現れて励ましてもらったので、国王軍の指揮を任せてみたものの、オルレアン解放に見事成功、今まで負け続けていたイングランド相手に大勝する。導かれる形でランスで戴冠式を挙げた。その後ジャンヌはブルゴーニュ派の捕虜となりイングランドに引き渡され、火刑となったが、シャルルは救出に動かなかったので見捨てたと後世で嫌われている。晩年は愛妾アニュスに国政介入され、王太子のルイ11世とも確執が残ったまま崩御

ジャンヌ・ダルク

百年戦争でフランスの窮地を救った一般人の少女。神のお告げに従いシャルル7世に直談判し、国王軍を率いてオルレアンを解放し、いじけていたシャルル7世を励ましランスで戴冠式を成功させた。最後はブルゴーニュ派に捕らえられ、イングランドへ売られる。ルーアンで宗教裁判にかけられ魔女であるとの判決を受け、異端者として火刑に処された。死後数十年経ってから、捕虜となった時に助けてくれなかったシャルル7世は1455年になってから異端判決に対して復権裁判を起こし、キリスト教徒として復権させた。近代になるとカトリック教会の聖人にするように民衆は訴え、1920年には聖人に列された。

イングランド側>
プランタジネット朝

中世イングランドの王朝。フランス貴族のアンジュー公アンリがヘンリー2世としてイングランドでは王、フランスでは貴族(フランス王の家臣)という二重生活からはじまった王朝。その後のランカスター朝ヨーク朝プランタジネット朝の傍系

エドワード2世

プランタジネット朝イングランド王、父王の崩御で即位。同性愛者で男の愛人がいた。性格も悪く無能だったので、悲惨な結婚生活を送るハメになったフランスから嫁いできた王妃イザベラのクーデターによって幽閉され、議会から廃位の上で暗殺された。

エドワード3世

プランタジネット朝イングランド王、父王が廃位されたので14歳で即位。母イザベラと愛人モーティマーに実権を握られていたが、17歳でクーデターを起こしてモーティマーは惨殺、母は幽閉に留めた。母がカペー朝フランスの王女であったので、カペー家断絶について自分がフランス王位の継承権があると主張し百年戦争を始めた張本人。

 
エドワード黒太子

エドワード3世の子、黒い鎧を着ていたので黒太子と呼ばれた。父に従い幾つもの戦争に勝利した英雄だが、王になる前に若くして亡くなってしまった。

リチャード2世

エドワード黒太子の忘れ形見、プランタジネット朝最後の王。百年戦争や農民一揆などに翻弄された。専制政治を始めたところ諸侯に脅威と見なされ、廃位させられた。

ランカスター朝

中世イングランドの王朝(1399年〜1961年)(いわゆる分家が)議会の支持を受け、プランタジネット朝(いわゆる本家)から王位を剥奪。百年戦争で勝利していた時期はフランス王位も兼ねていた。その後の薔薇戦争で親戚のヨーク家と王位を争う

ヘンリー5世

ランカスター朝第2代王。休戦中の百年戦争を再開し、フランス国内のイングランド領を広げた。シャルル6世を何度も打ち破り、その娘を嫁にもらう。イングランド王がフランス王を兼ねられるように取り計らう。妻の兄弟であるシャルル7世とも激しく対立

 

ヘンリー6世

イングランド王ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの子。まだ子供でよく分かっていないのにフランス王も兼ねさせられる。この後起きる薔薇戦争でも酷い目に遭う。

 

■年表

1303年 フランス王女イザベルと英王太子エドワード2世婚約

1328年 シャルル4世崩御によってカペー家断絶

1337年 エドワード3世がフィリップ6世の王位継承に難癖をつける

百年戦争開始

1346年 クレシーの戦い(↑🇬🇧エドワード3世 vs 🇫🇷フィリップ6世↓)

1356年 ポワティエの戦い(↑🇬🇧エドワード黒太子 vs 🇫🇷ジャン2世↓)

1360年 ブレティニー条約締結

1407年 フランス国内がオルレアン派とブルゴーニュ派で二分される

1415年 アジャンクールの戦い(↑🇬🇧 vs 🇫🇷↓)

1416年 フランス国内の混乱、ブルゴーニュ派はイングランドに助けを求める

1420年 トロワ条約締結(ヘンリー5世とシャルル6世の娘の婚姻によってフランス継承権をイングランド王に認めた)

1420年 フランス王太子シャルルはトロワ条約の影響で王位継承権を否認

1425年 ジャンヌダルクが神の声を聞く

1427年 ジャンヌダルクがシャルル王太子に謁見

1428年 オルレアン包囲戦(↑🇫🇷 vs 🇬🇧↓)

1430年 ジャンヌダルク捕まる

1431年 ジャンヌダルク火刑

1453年 カスティヨンの戦い(↑🇫🇷 vs 🇬🇧↓)

1475年 ピキニー条約締結(百年戦争終戦、フランス王位はフランスに返還)

■参考資料(ドラマ)

ジャンヌダルク(映画)

www.youtube.com

バイオハザードミラ・ジョボビッチ主演。かっこいい

 

 

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🇯🇵平家vs源氏

平氏vs源氏の相関図を作成しました。

「鎌倉殿の13人」「義経」「平清盛」など大河ドラマでも取り上げられる題材です。アニメの「平家物語」もとても良かったですね。平家は他人に厳しく身内は仲良し、源氏は身内内で殺しあいをしているイメージです。

 

■目次

<平家>
天皇家
 
<源家>
 
<北条家>
 

 

■人物紹介

<平家>
平清盛

平安末期に平氏全盛期を築いた。1167年に武士として初めて太政大臣になり、娘の徳子を高倉天皇の后にし、その他の一族も高位高官につけた。大仏を燃やしたりしたため、祟られて高熱で死んだと言われている。

平時子

清盛の継室(結婚前から親戚の平さん)壇之浦の戦いで敗れ、孫の安徳天皇と共に入水した。平家滅亡の原因である若き日の頼朝助名懇願をしたのはこの人ではなく、清盛の継母。

平滋子

時子の姉妹。平家一族から後白河法皇の后の一人になった。

平重盛

清盛の嫡男。優秀で期待されていたが、病気で早めに亡くなってしまった

平知盛

清盛の四男。源平争乱での平氏を代表する人物。優秀な兄・重盛が亡くなった後、後継となったのは次兄宗盛であったが、実質平氏の代表は弟の知盛であったよう(宗盛・・・)武に優れていたものの、源氏に追い詰められて壇之浦で安徳天皇の入水を見届けると、「見るべき程のことは見つ」と言い残し、鎧二領を重ねて重りにし、最後を遂げたのが有名

平徳子

清盛の娘。高倉天皇の皇后となり、安徳天皇を産む。壇之浦で安徳天皇と共に入水したが、源氏軍に引き上げられ、生き残ってしまう。その後京へ送還されて、出家した。かわいそう。

平維盛

重盛の嫡男(清盛の孫)光源氏の再来とも称されるほどのイケメン。富士川の戦いで源氏軍にビビって逃亡するなどなど壊滅的な大敗をする。平家衰退の際、捕らえられる前に出家したが、その後入水自殺した。

平資盛

重盛の二男。摂政藤原基房との諍いを起こした

平清経

重盛の三男。横笛の名手。

 
天皇家
後白河法皇

鳥羽天皇の子、天皇即位後というより退位後に院政で大活躍。王朝権力強化のため源氏と平氏の争いを陰で操っていた策士。

崇徳上皇

後白河法皇の兄で鳥羽天皇の子…のはずだが、鳥羽天皇は祖父・白河法皇と自身の妻の不義の子と思っていたため嫌っていた説がある。曽祖父・白河法皇の生存中は崇徳天皇も守られていたが、白河法皇崩御によって実権が鳥羽上皇のものになると、権力の座を奪われてしまった。鳥羽法皇崩御後、保元の乱(後白河vs崇徳)で敗れ、壱岐に流されてしまう。写経を行い都に送ったが無視されたので、崇徳上皇は怨霊化した。

高倉天皇

後白河法皇と平滋子の子、安徳天皇の父

安徳天皇

高倉天皇平徳子の子、後白河法皇の孫であり、清盛の孫。結果的に清盛に振り回される形で3歳にして即位するも歴代天皇の中で最も若くして8歳で崩御。また歴代天皇の中で唯一戦いによって命を落とした。壇ノ浦で沈められたかわいそうな幼帝。

後鳥羽上皇

安徳天皇の異母弟、後白河法皇の孫。安徳天皇在位中に祖父の後白河法皇平氏に対抗して後鳥羽天皇を4歳で即位させた。通常天皇は家宝である三種の神器と一緒に即位するものだが、神器は平氏に持ち去られていたので、(その後安徳天皇と一緒に沈んだ)神器なしで即位したのが後々までのコンプレックスとなる。鎌倉時代に入ると北条氏がうざくなってきたので、承久の乱を起こすが、武士は味方になってくれなかったので敗戦。負けても天皇なので殺されなかったが、隠岐島島流しとなった。

 
<源家>
源義朝

没落源氏になってしまった父・源為義により関東へ送られたが、相模一帯に基盤を固めて多くの坂東武士を配下に置く。都に返り咲き鳥羽上皇の配下となる。1156年保元の乱(後白河VS崇徳)で父・為義とも敵対し、勝者側であった義朝は自ら父を斬首した。(※源氏名物:身内で殺しあい)その後仲間であった平氏の方が優遇されたことなども起因して1159年に平治の乱が起きるが、平清盛に敗れて殺された。

由良御前

源義朝正室、頼朝の母。家柄が良かったので、コネで夫を鳥羽上皇北面の武士に就けた。

常盤御前

源義朝の側室、義経阿野全成、義円の母。絶世の美女だが家柄は悪い。義朝の愛妾になるが、義朝敗戦により清盛に捉えられる。しかし美人だったので清盛にも愛妾にされた。

源義賢

源義朝の異母弟、木曽義仲の父。兄・義朝とは対立(長子相続でなかったので争いが多かったらしい)義朝は長男・義平に叔父殺しを命じ、義賢は命を落とした(※源氏名物:身内で殺しあい)

源頼朝

源義朝と由良御前の子、長男ではなかったが母親の家柄が良かったので後継だったが、父が平治の乱に敗れて、自らも捉えられるが、若かったので、清盛の継母の助命懇願により関東へ流罪人となる。流罪地でも女癖が悪く北条政子と駆け落ち未遂婚をすることによって、北条氏を後ろ盾に挙兵、弟たちを利用し平家を滅亡させ、鎌倉幕府の初代将軍となるも、用済みの弟たちは粛清した(※源氏名物:身内で殺しあい)武士の棟梁なのに落馬して死んだが、実は暗殺されたのか、呪殺されたのかもしれない。

源義経

源義朝常盤御前の子、頼朝の異母弟。平治の乱で父が敗死したことで鞍馬寺に預けられるが、平泉の藤原秀衡の庇護を受ける。頼朝挙兵の知らせを受けて参戦し、実質的に壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼした最大の功労者。後白河法皇と兄頼朝の間に挟まれたことが原因となり、頼朝に疎まれて追討された(※源氏名物:身内で殺しあい)

木曽義仲

源義賢の次男、頼朝・義経の従兄弟。「※源氏名物:身内で殺しあい」によって幼い頃に父が殺されたので、信濃国に逃れて育つ。以仁王の令旨を受けて、頼朝よりも先に挙兵し朝日将軍を自称する。後白河法皇の元で大活躍をするが、その後関係は悪化し後白河法皇は頼朝を重宝することにした。不信感を募らせらた義仲は後白河法皇の御所を襲撃、後白河サイドの頼朝によって追討された。(※源氏名物:身内で殺しあい)

木曽義高

木曽義仲の子。父義仲と頼朝の武力衝突の間、従兄弟である頼朝の長女・大姫の許嫁、実質人質として鎌倉に送られてきた。父義仲が義経に打ち取られると、頼朝の命により義高追討の命が下る。(※源氏名物:身内で殺しあい)

大姫

源頼朝北条政子の第一子、従兄弟の義高と婚約し仲睦まじく過ごすが、父により義高追討の命が下り、大姫は義高を逃すが、義高は捉えられ処刑された。衝撃をうけ心を病むが、そんな状態でも父はかつての清盛のように大姫を後鳥羽天皇のもとへ入内させようとするが、そのまま衰弱し入内は叶わず、20歳でこの世を去った。

源頼家

源頼朝北条政子の長男。18歳で家督を相続した二代目将軍。外戚の北条氏に翻弄されて、ダメ将軍の烙印を押されているが有能説もある(有能なので操り人形にならなかった為暗殺された説)自身の外戚・北条家と乳母の一族・比企家の対立が起こり、頼家の妻子含む比企一族が滅ぼされ、頼家は修善寺へ幽閉の上暗殺された。(※源氏名物:身内で殺しあい)

源実朝

源頼朝北条政子の次男。兄の死によって12歳で将軍にさせられる。和歌を愛した文化人。何も悪いことをしていないのに、父の仇と勘違いされて、鎌倉の鶴岡八幡宮の階段で甥の公暁に暗殺された。

公暁

頼家の子。比企家とは無関係なので命は助けられ仏門に入る。かわいそうに思った祖母政子の計らいで鶴岡八幡宮宮司にもなったが、何故父と兄は殺されたのか、自分こそが正当な父の後継者であるべきと叔父実朝・北条義時を恨んだ。鶴岡八幡宮の階段で実朝を暗殺する。(※源氏名物:身内で殺しあい)

一幡

頼家と比企家の娘の子。自身にとって親戚であるはずの北条家と・比企家の対立が起こり、安徳天皇のように比企家と共に殺されてしまった。(※源氏名物:身内で殺しあい)

<北条家>
北条政子

頼朝の正室、大姫・頼家・実朝の母。頼朝の死後は息子の後見人として実権を握った。後鳥羽上皇による承久の乱蜂起では、政子による御家人への演説で武士を味方にし、天皇家に勝利してしまう。子供たちは皆不幸に死んでしまい、孫は子を殺した犯人という地獄を味合うことになった。

北条義時

政子の弟。源氏将軍が断絶した後は、名目上貴族を将軍に据えるが、実質的には義時が指導者となった。

■年表

1156年 保元の乱(↑後白河上皇源義朝平清盛 vs 崇徳上皇源為義平忠正↓)

1158年 後白河上皇院政開始

1159年 平治の乱(↑ 平清盛 vs 源義朝 ↓)

1160年 源義朝死刑、若い頼朝は平時子の助命懇願により島流しで済む

1177年 鹿ヶ谷の陰謀

1179年 平重盛病死、清盛、後白河法皇を幽閉し日宋貿易を開始する

1180年 以仁王の令旨

1181年 平清盛死亡

1183年 破波山の戦い、源義仲入京

1184年 源義仲戦死

     一谷の合戦(源義経による鵯越の逆落とし)

1185年 尾島の戦い

     壇ノ浦の戦い平氏滅亡、安徳天皇入水

1186年 源頼朝鎌倉幕府を開く

1192年 源頼朝征夷大将軍になる

1202年 源頼家征夷大将軍になる

1203年 源実朝征夷大将軍になる

1204年 源頼家、暗殺される

1205年 北条義時が執権になる

1219年 源実朝、暗殺される

1221年 承久の乱(↑鎌倉幕府 vs 後鳥羽上皇↓) 

 

■参考資料(ドラマ)

平家物語(アニメ)

www.youtube.com

平家に拾われた琵琶法師が主人公。みんな死なないでほしかった

 

■鎌倉殿の13人

www.youtube.com

NHK大河ドラマの名作!毎回死人が出ることでも有名でしたね。

 

 

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🇨🇳中国王朝の変遷と有名人  



今回は相関図ではなく、中国王朝と有名人の図を作成しました。

参考資料は華流ドラマです。

 

■目次

・武則天
・楊貴妃
<五代十国>
<宋>
<元>
・チンギス・ハン
<明>
・朱元璋(洪武帝)
<清>
・ヌルハチ
・西太后
・溥儀
<中華民国>
<中華人民共和国>
 

 

■人物紹介

<殷>

紀元前17世紀頃〜紀元前1050年頃まで存在した中国最古の王朝…とされている。またはその前の夏王朝が最古との説もあり、中国歴史学会でも意見が分かれているよう。またの名を「商」ともいう。殷の湯王が武力により夏を滅ぼし王朝を建てた。(夏王朝の存在は存在自体が議論されている)青銅器や甲骨文字の文化が成立していた。最後の王、酒池肉林の紂王の堕落したバイオレンスな伝説が有名だが、後世の創作であるともされている。いつも世も滅ぼされた前王朝や権力者はボロクソに書かれるのが歴史というものです。

妲己

紂王の妃。とんでもない美人だったので、後宮に入るやいなや紂王をメロメロにし、酒池肉林の贅沢を極め、臣下を好きなように思いのまま虐殺命令をした悪女…というか創作物では狐や妖怪とされている。

<周> 首都:鎬京

紀元前1050年頃〜紀元前700年頃までの覇権王朝。武王が殷の暴君紂王を倒して覇権獲得、その子孫が封建制を創始した。紀元前770年には都を洛陽に移し、支配力をだんだんと弱め、春秋戦国時代へと突入する。

<春秋戦国>

コメント紀元前700年〜紀元前220年、秦の統一までの約5世紀半の期間を指す。各地に有力者が自立して分裂した時代。鉄製農具の普及や諸子百家の登場による新たな思想の成立などで社会変動期でもある。(※日本はその頃縄文時代弥生時代

孔子

春秋時代の学者。日本の女の子のように「○子」となっている訳ではなく、中国語の「子」は先生の意味、すなわち「孔先生」。思想家で哲学者。「仁」(人を愛することを基本とすると「礼」(外見的な秩序)を重視した教えを説いた。後に「儒教の始祖」と呼ばれるようになった。

<秦>首都:咸陽

紀元前221年に始皇帝により中国史上初めての統一王朝が築かれた。秦自体は周時代から存在しており、諸侯を滅ぼし全土を統一、紀元前206年に滅亡した。

 
始皇帝(嬴政)

統一中国の初代皇帝(秦国としては31代王)キングダムの主人公としても有名。側室の子であったが、13歳で秦王に即位、韓・義・趙・楚・燕・斉の6つの国を次々と攻め滅ぼし、紀元前221年に中国史上初の天下統一を果たした。 咸陽へ遷都し、称号を改め、史上初の「皇帝」となった。支配地全土に群県制を施行、文字・貨幣・度量衡などの統一も行なった。始皇帝は49歳で崩御し、その死後は反乱が起こり、秦は15年間しかもたない国家となってしまった。

<漢>首都:長安

中国で最初の長期安定した王朝。紀元前202年に劉邦が初代皇帝となり、紀元後外戚王莽に帝位を奪われ紀元後8年に滅亡(前漢)、紀元後25年に劉秀が復興させ3世紀まで続いた。(※漢帝国登場時点でのヨーロッパはローマ帝国成立)

劉邦

元々は農民出身の不良で諸国を放浪していた。お金稼ぎのために始皇帝の軍に参加したが、悪待遇の中で途中で逃亡し盗賊となり、秦を倒すため仲間を集めて反乱軍へと成長した。勢力をましていき、楚の有力者であった項羽と競って遂に三代目の皇帝を倒し、秦王朝を滅亡させ漢王となった。妻は中国三大悪女の呂雉。

・呂雉

劉邦の妻。中国三大悪女の最初の人。劉邦が貧しい頃から支え続けた賢妻である反面、異常に嫉妬深く、劉邦死後に側室を殺しまくる。気に入らない側室の四肢を生きたまま切り落として、豚小屋に捨てて長く苦しみながら死ぬように仕向ける。その現場を自らの息子が目撃してしまい、ショックで早世してしまった。

武帝

漢の全盛期である第7代目皇帝。中央集権化を完成させ帝国拡大をした。その範囲は朝鮮やベトナムまでに至る。ドラマ「賢后衛子夫」で踊子から側室、皇后へと上り詰めた心やさしきヒロインの相手役の王様だが、史実のシンデレラストーリーの結末は実際はもうろくジジイになった武帝の興味は李夫人に移り、いろいろ不満を持った皇太子の反乱(巫蠱の乱)が起き、自殺させた。

三国時代

後漢王朝滅亡後の紀元後220年〜280年間、魏・呉・蜀の三国が分立対抗していた。

魏 首都:洛陽

220年に建国、邪馬台国卑弥呼親魏倭王の称号を与えた。曹氏が王であったが、265年に司馬氏に実権を奪われ、司馬氏は晋を建国した。

曹操

後漢の宦官の養子として生まれ、官吏登用試験に合格した文武両道の軍人・政治家で実質的な魏の始祖(実際の建国は子の文帝)220年の建国と同時期に病で崩御

呉 首都:建業(南京)

魏と蜀の対立激化によって、魏の文帝は孫権を呉王に任命し222年に建国、都を建業(現在の南京)に置いた。208年の赤壁の戦いでは、蜀と同盟を結び魏軍に大勝利したが、蜀との関係悪化により後には逆に魏と同盟を結んだ。280年に晋に撃たれ滅亡した。

孫権

孫権の父は後漢土豪出身だったが、黄巾の乱で頭角を表し軍団の有力者になったが戦死した。兄も殺されたので、生き残った孫権が後を継ぐ。赤壁の戦いで魏(曹操)を破り、史陵で蜀(劉備)を破る

蜀 首都:成都

221年に建国、諸葛孔明を宰相に周辺諸民族を制圧し、魏や呉と対抗した。劉備孔明の死によって蜀は衰退、263年に魏軍に無抵抗降伏し滅亡した。

劉備

没落した家の出身であったが、自身を漢王室の子孫と信じ、漢の再建を目指した。黄巾の乱で人望を集め、関羽張飛諸葛孔明などの有能な配下を持ち大勢力となった。赤壁の戦いで大勝、蜀を建国した。

諸葛孔明

三国時代の蜀の軍帥。魏に頼りきりだった劉備を助け、外交官・交渉人として大活躍。超絶頭が良い人。

<晋>首都:洛陽

265年に魏から禅譲という形で司馬炎が建国し、280年に呉を滅ぼして中華統一。316年に匈奴長安を奪われて滅亡した。が(317年に王族の司馬睿が東晋を江南の建康を首都として建国)

南北朝

5〜6世紀の間、中国は華北と江南に分裂した

北朝華北北魏東魏西魏北斉北周

南朝】江南:(東晋)→宋→斉→梁→陳

<隋>首都:長安

581年に北周外戚であった楊堅が建国した。589年に陳を滅ぼし中華統一し、南北朝時代を終わらせた。587年に科挙の創始、律令制の整備などを行い、中央集権体制が確立されたが、息子の煬帝の代で民衆からの反発が強くなり、37年で終了した短い国家であった

煬帝

楊堅とドラマにもなった独狐加羅の息子で二代目の皇帝。607年日本から小野妹子が遣隋使として派遣された。聖徳太子の手紙「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す〜」の無礼な手紙を受け取り不快に感じた人。むかついたけど、高句麗を侵略したかったし、朝貢なら受け取ってやると受け入れた。結局高句麗遠征は失敗して、臣下から殺されてしまった。

<唐>首都:長安

618年に随の官僚であった鮮卑系の李淵が、混乱に乗じて唐を建国した。907年に滅亡

武則天

元々は2代皇帝・太宗の後宮に入ったが、大宗はすぐに崩御し、慣例に従い尼となったが、3代皇帝・高宗の皇后王氏が、当時の寵姫を排除すべく、美人の武則天を還俗させて味方として高宗の後宮に引き入れたが、逆に王氏も冤罪で廃皇后にされる。その際武則天は実子である女の子を殺害し、皇后に罪をなすりつけた。邪魔者は排除し皇后になったが、それだけでが飽き足らず、高宗の死後に即位した実子2人を廃帝にして、自らを女帝として即位した。権力を握るまでが禍々しいので、悪女と非難されているが、統治能力自体は悪くなかったとされている。

楊貴妃

第9代皇帝玄宗の寵姫。世界三大美女の一人でまさに傾国の美女。好物はライチ。玄宗はその前半生は非常に有能な皇帝であったが、後半は楊貴妃に夢中になり、温泉ばかりに行って、政治を顧みなくなってしまった為、唐の衰退を招いた。755年の安史の乱で反乱軍により殺害された。

五代十国

907年〜979年頃の時代。唐の滅亡〜北宋の成立の間に5つの王朝と地方の諸政権が興亡した時代

 

<宋>首都:開封

960年に趙匡胤が建国し、五代の争乱を終わらせ979年に中国統一を果たす。1127年に金軍の首都占領によって滅亡するが、江南に逃れた趙一族は南宋を建国した。日本の平清盛日宋貿易で宋から香料や陶磁器、銅銭などを輸入した。

<元>首都:大都(北京)

1279年南宋を滅ぼしたモンゴルは、さらに南下し中国を征服した。元という元号は1271に定められた。1274年と1281年には元寇として日本にも攻めてきた。漢人の反発・反乱により90年続いた異民族統治は1368年に滅亡し、モンゴル人は高原に帰って行った。

 

フビライ・ハン

モンゴル帝国第5代皇帝は元の初代皇帝として中国を支配した(※モンゴル帝国自体は高原を統一した先祖のチンギス・ハンによって1206年に建国された)

<明>首都:南京

1368年にモンゴル勢力を追い出し、漢民族朱元璋が建国した漢民族の王朝。皇帝独裁体制を敷いた。1644年の李自成の乱で反乱軍により北京が占領され、最後の皇帝崇禎帝の自殺によって明は滅亡した。

朱元璋

貧農出身で飢饉で家族を失った。乞食僧となって放浪するが、紅巾の乱の際に反乱軍に加わって次第に頭角をあらわし、明を建国してしまう。自らも反乱軍出身であったためか疑わしい家臣は全て粛清した怖い人。

<清>

女真族満州に建国した後金が国号を清に変更した。すなわち満州族により王朝樹立した最後の帝国。領土を広げ、現在の中国の原型を作った。1840年のイギリスのアヘン攻撃によって弱体させられ、半植民地と化する。1911年の辛亥革命によって滅亡。ラーメンマンな髪型はこの満州人の伝統である。華流ドラマで超絶イケメンがラーメンマンな髪型で複雑。よく考えれば日本の丁髷もね・・・。

ヌルハチ

清の建国者。日本人としては名前が強烈なので覚えやすい。息子はホンタイジ、こちらも覚えやすい。中国征服が達成されたのは孫の順治帝の時代

西太后

中堅官僚の娘、選秀女(清時代にあった后妃などを選ぶ面接試験)に合格し、第7代咸豊帝の側室として紫禁城に入内。咸豊帝はすぐに崩御、幼かった実子の同治帝と次の光緒帝の後見人として47年間政権を握った。死に際に溥儀を新皇帝として指名した。悪女伝説は植民地支配を目論んだイギリスの陰謀ともされている。

溥儀

ラストエンペラー

中華民国

1911年に孫文による辛亥革命で清を滅ぼし、1912年に設立された共和政国家。国民党と共産党の対立、日中戦争などで国内が分裂する。中華人民共和国側によって本土から追放され、台湾島を実行支配し独立国家を主張することになった。

中華人民共和国

1949年に共産党毛沢東が建国を宣言し、国民党(中華民国)を追放した。現在まで続く共産党国家。

■参考資料(ドラマ)

<殷>

封神演義

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中国明時代に成立した小説が原作。史実の殷周易姓革命を舞台に仙人や妖怪が大戦争する歴史ファンタジー。悪のヒロインは妲己

 

<春秋戦国→秦>

■キングダム

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春秋戦国時代に秦の始皇帝と武将・李信が中華統一を目指すお話

 

 

<漢>

■賢后衛子夫

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漢の全盛期を築いた武帝とその側室から皇后になったのラブストーリー

このお話はハッピーエンドだったけど、史実では新しい側室に嵌められて処刑されています…

 

 

三国時代

三国志

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後漢最後の皇帝劉協の替え玉として架空の主人公・劉平が皇帝に成り代わって漢王朝の再建のために曹操との戦いに挑むお話

 

 

<晋>

■孤高の花

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晋と燕の武将のラブロマンス

アンジェラベイビーが美しすぎたという感想しかない

 

 

南北朝北魏

■ムーラン

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各家庭から男子が一人徴兵されることになったが、年老いた父親の代わりに男装した娘が入隊し、大活躍したディズニープリンセス

 

南北朝→隋>

■独狐加羅

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南北朝時代の家柄の良い三姉妹が、それぞれ別の国の皇后(皇太后)になるお話。姉妹間でドロドロしてて面白かった

 

 

<唐>

武則天

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美しすぎるファン・ビンビンが悪女として成り上がっていくお話

 

 

楊貴妃

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こちらも美しすぎるファン・ビンビン世界三大美女楊貴妃を演じた

 

<元>

■奇皇后(韓国ドラマ)

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華流ドラマではなく韓国ドラマだけれども、奴隷として差し出された高麗人が元の皇帝に気に入られて皇后になるお話。高麗王は架空の王

 

 

<清>

■瓔珞 イラク紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~

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ラストエンペラー

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言わずも知れたハリウッド映画

 

 

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🇪🇸ラスメニーナス  スペインハプスブルク家について

 

ベラスケスの名画 ”ラスメニーナス”の登場人物について描きました

 

スペインハプスブルク家です。主役は可愛らしい王女様…と見せかけて、タイトル「ラスメニーナス」はスペイン語で「女官たち」の意味。そして、本当の主役は奥の鏡に写っている王様夫妻(王女の両親)ともされています。鑑賞者が鏡に写っている感じ。主役は鑑賞者、鑑賞者は王様、私は王様なのです。設定では左の画家ベラスケスが王夫妻の肖像画を描いているところに王女御一行が遊びに来た

 

■目次

 

■人物紹介

王女マルガリータ

フェリペ4世と王妃マリアナの子、かわいいかわいい王女様。描かれた時は5歳だったという。近親婚の呪いを背負った弟とは異なり、健常児ではあったものの身体は弱かった。将来はオーストリアハプスブルク家のレオポルト1世に嫁ぎ、21歳で流産により早く亡くなってしまう。

ドーニャ・マリア・アウグスティーナ・サルミエント

王女の左の女官

ドーニャ・イザベル・ベラスコ

王女の右の女官

マリア・バルボラ

王女の遊び相手として雇われている軟骨無形成症の成人女性。当時のヨーロッパでは小さい人人を慰め者として側に置いておくことがステータスだった。マリア本人は気が強くて周囲の人は恐れていたよう。

ニコラが飼っている愛犬モーゼ

ニコラシート・ベルトゥサート

小人の少年

ドーニャ・マルセーラ・ウリョーア

王妃の女官

ドン・ディエゴ・ルイス・デ・アスコーナ

王妃の従者

ドン・ホセ・ニエート

宮廷武官

 
フェリペ4世

オランダやポルトガルがスペインの支配から独立してしまったので、無能王という不名誉なあだ名が付けられた王様。美術を好み、画家ベラスケスを保護しバロック美術の発展には貢献した。女好きで浮気もの。7人の嫡子と30人以上の庶子がいたそう。人生楽しそうですね。

王妃マリアナ

オーストリアハプスブルク家から嫁いできた後妻マルゲリータ王女とカルロス2世の母。本当はフェリペ2世の息子の王子様と結婚するはずだったのに、王子様は急死してしまい、30歳以上年上のおじさまと結婚するハメになってしまったためか肖像画仏頂面が多い。長年続いて濃くなりすぎた近親婚の業が息子カルロス2世に集中し、酷い障がいを背負うことになる。

ベラスケス

フェリペ4世のお気に入り宮廷画家。モデルを美化せずに鏡に写ったように描くことで有名になり、バロック美術を代表する画家となった。ベラスケスの絵はスペイン・マドリードプラド美術館に所蔵されている。

スペインハプスブルク家について

神聖ローマ帝国皇帝カール5世を持ってハプスブルク家オーストリアとスペインに分裂した。大帝国を築いた。領土の増やし方は戦争でもぎ取るのではなく、政略結婚で相続する形で領土を増やしていった。そのため逆に奪われないように親族間での結婚を繰り返し、最終的には血が濃すぎて健常児が生まれにくくなり断絶した。

 

 

■参考資料

 


 

 
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🇯🇵関ヶ原の戦いの相関図  

関ヶ原の戦いの相関図を作成しました。

関ヶ原の戦いは豊臣VS徳川のイメージですが、実際は豊臣秀頼の下での家臣の争いでした。

 

■目次

<東軍>

 

<西軍>

 

 

■人物紹介

豊臣秀頼

父・豊臣秀吉死後に若くして後を継ぐが、若すぎたために力不足で、この後の大阪の陣で家康に滅ぼされる。無能な若君として描かれてきたが、傀儡にするのは難しいので滅ぼされたとの有能説もある。関ヶ原の戦いはあくまでも秀頼政権下の家臣の諍いなので、とりあえずは高みの見物だった。

淀殿

秀吉の側室で秀頼生母。悪女に描かれているが苦労人。能力もないのに、息子を利用して権力を握りたかったただの無能な悪女なのか、息子が心配な子煩悩な母だったのか意見が分かれている。

<東軍>
徳川家康

この後江戸幕府を開いた大御所。鳴くまでまったホトトギス。今こそ豊臣政権に牙を剥く

本多忠勝

親の代から徳川家(松平家)に仕える。戦国最強の武将

井伊直政

幼い時に両親を亡くし、女城主直虎を養母にもち、井伊家再建のため徳川家康の家臣になり出世していく。大層なイケメンだったらしい。

黒田長政

黒田官兵衛の嫡男。豊臣家に仕えていたが、石田三成と対立したため、徳川家康に接近し、既に居た性質東軍側で参戦。

細川忠興

明智光秀の娘で超絶美人のガラシャの夫。メンヘラな愛で妻大好きだったが、石田三成の武将の妻を人質にとって西軍に引き入れようという作戦によって、ガラシャは自害(キリスト教徒は自殺禁止なので家臣による殺害)、悲しみの忠興は三成許すまじ!で東軍に参戦した。

寺沢広高

キリシタン大名で東軍に従軍、江戸時代になると長崎奉行になった。自身もキリシタン大名だったのに、積極的なキリシタン弾圧を行った為、天草一向一揆の原因にもなったらしい

福島正則

幼少の頃から豊臣秀吉の小姓として仕えてきた。秀吉の正室・ねねを母と慕う。関ヶ原の戦いでは東軍に従軍し、西軍の宇喜多秀家と戦い、東軍勝利に貢献した。

 
藤堂高虎

元々は浅井長政の家臣(足軽)だったが、その後各地を渡り歩きの武将の元を転々とする。豊臣秀長(秀吉の弟)に仕える。秀長死後は出家したかったが、秀吉にその才を惜しまれ秀吉の元で武功を上げることになる。秀吉の死前後に家康に接近し、関ヶ原では東軍に従軍。西軍武将を東軍に寝返らせる工作を行った。築城の名人とも称され、生涯数多くの築城に携わった。

真田信之

真田幸村の兄。関ヶ原の戦いで父と弟が西軍についたのにも関わらず、自身は東軍に従軍。元々は敵対していた徳川方の本多忠勝の娘・稲姫と政略結婚をしたので、婿舅関係に当たる。関ヶ原が東軍の勝利に終わると、戦後西軍の信之による父と弟の助命懇願が叶って2人は流罪で済んだ。

 
<西軍>
石田三成

秀吉の長浜城主時代に部下になる。太閤検地などの多くの政策に携わり、五奉行に上り詰めた。秀吉の死後、同僚の徳川家康が秀頼を蔑ろにしたり、次の天下人を目指す家康に忠義の三成は反発、確執はどんどん表面化し、関ヶ原の戦いが始まることになる。ドラマでは淀の愛人や秀頼の実父になったりするが、それは大野治長の説の方が強い。敗戦後は処刑された。生真面目すぎてその他同僚から嫌われたのが、敗因だと思われる。

島津義弘

朝鮮の役などに常に戦地最前線で指揮を行った。鬼島津の異名を持つ猛将。元々東軍での参加をしようと思っていたが、ボタンの掛け違いで徳川にむかついたので、西軍として参加するも東軍とも内通していたが、寝返らなかった。ちなみに石田三成の部下にもムカついた。

島左近

石田家の重臣で三成の参謀

小西行長

豊臣秀吉の側近として仕え、文禄・慶長の役朝鮮出兵)に加藤清正とともに先鋒となり出陣し講和にも努めたが失敗した。関ヶ原には西軍として敗戦し、石田三成とともに斬首となる。

 
宇喜多秀家

朝鮮出兵の軍以外にも多岐にわたる功績で豊土秀吉により五大老に任命される。関ヶ原は西軍として敗北後、斬首は逃れるが八丈島に流され50年間流罪人として生きた。

大谷吉継

石田三成の親友。らい病と戦いながら戦国の乱世を生きた。

真田幸村

豊臣に忠誠を誓い、関ヶ原にも父とともに西軍として参加した。関ヶ原敗北後も豊臣家への忠誠心は変わらず、大阪の陣でも活躍した。豊臣家滅亡後は兄の助けにより資材は免れた。

吉川広家

西軍として参加したが、密かに徳川家と内通していた

毛利元就

3本の矢で知られる毛利元輝の祖父。

小早川秀秋

関ヶ原の戦いのキーパーソン。秀秋の行動(裏切り)により、東軍の勝利となった。元々は徳川家康の養子、その後転縁組で小早川隆景の養子となる。

 

 

■年表

1598年 豊臣秀吉崩御

1600年 関ヶ原の戦い

1603年 江戸幕府成立

1614年 大阪冬の陣

1615年 大阪夏の陣→豊臣家滅亡

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